カテゴリ:執筆雑感( 3 )

満州事変当時、満州は中国の領土ではなかった

こんにちは

 皆さんもうご存知と思いますが、満州事変が起きた時点で、満州は中国領ではありません。あそこは満州族のエリア。中国はなんでも中国領にするから注意です。

 というか、当時は現在程、国境と言う概念がはっきりしてなかったのです。

 樺太なんて、日露雑居という概念だった。

 中国なんて、周辺国と貿易をしてして、貿易していたところを服属国としていたが、周辺国にしてみれば、中国と貿易をしたいから、方便でそのように言っていただけです。別に中国領だったわけではない。

 貿易をしていた国が領土と言うのなら、今、世界中が日本領とも言えてしまう。もちろん、どこの国でも言えるのであるが。

 話を満州に戻します。

 ほんとは何にもなかった所です。そこにロシアがシベリア鉄道を引き、物流が行われるようになり人が集まってきた。そこに流れて来たのが、張作霖。

 中国の領土でない、「満州」という言葉を使うのが中国人は嫌なのです。中国領ではなかったことがバレるかからね。

 だから 満州事変のことを、柳条湖事件 と訳の分からない名称で言っています。なんのことが私は最初わからんかったです。

 また、満州 というと、中国人はあまり気分が良く無いみたいである。

 中国東北部 というのが正しいそうである。

 極力、満州 ということばを避けたい。

 日本のコントロールを受けた、満州国 が、あったから嫌だと言うのもあるが、満州、と言うと、昔は中国領でなかったことがバレるから嫌なのである。
[PR]
by history-japan | 2012-09-19 12:23 | 執筆雑感

聖徳太子がいなかったとは?

聖徳太子はいなかった?  馬鹿じゃないか、と思います。

 その根拠は、日本書紀にしか載っていない、というのです。歴史学者ってひょっとしたら馬鹿ぞろいなんでしょうか。

 聖徳太子が推古天皇の摂政になったのは、593年。

 平城京遷都は710年。日本書紀は奈良時代に書かれています。

 きっと、聖徳太子の時代から100年前後くらい経った頃に書かれている。聖徳太子を見た事がある、という100歳くらいの年寄りすらまだ生きていたようにも思います。

 また、大和朝廷が書きましたが、このようなもの、朝廷に都合の悪いことは書かないのが、何処の国でもいつの時代でも常ですが、聖徳太子は大和朝廷の立役者であり、エースです。特筆大書されている。それでいて「いない」ということはあり得ない。

 ただ、考えられるのは、聖徳太子は朝鮮、中国にとっては面白くない人でありました。

 中国には、「日の出るように勢いのある日本の天子が、日が没するような貴国の天子に申し上げる」と対等の表現をしました。隋の煬帝は激怒したと言いますが、高句麗との戦争を控えていたので、我慢しました。そのことを小野妹子からも煬帝が指摘されています。

 朝鮮は当時3つの国に分かれ、日本に文化的影響を与えていましたが、大和朝廷の中に、百済派、新羅派、高句麗派 みたいなものができて、ゴタゴタの種にもなっていた。
 朝鮮の文化のネタは隋にあるのであれば、朝鮮を頭越しに隋と直接結ぼうと考えたのが、聖徳太子でした。実際、小野妹子が隋からの帰国中に、百済で暴漢に教われ、隋の煬帝からの国書を盗まれております。

 まあ、中国、朝鮮にとって面白くない人。たぶん、聖徳太子はいない、と言う学者は、彼らに一杯盛られているのでは、と思っています。まあ、くだらないことばかり言っていると、信用を失います。歴史学者よ、しっかりしろ、と言いたいです。

 長くなりました。自分は自分の歴史を力強く書き、それを教えます。

 歴史を教えるとき、やはり、豊富な図や写真が必要です。それを紙芝居的に出す。それができるように、KeyNoteを使って作りました。

 このようなモノを広く配布したい。そして、おのおのが、そのKeyNote紙芝居を使って、自分の子や孫に、そして、塾で、学校で、歴史を教えたら良いのでは、と思います。KeyNote(PowerPoint 版も作製する予定)で出来ていますから、スライドの差し替え、作り替えは、おのおのが存分に。それにしてもこのようなものがあると、すぐにできる。一から作るのは、時間がかかるし、骨も折れます。

 そのような思いで作りました。今後もよろしくお願い致します。
[PR]
by history-japan | 2011-04-27 18:59 | 執筆雑感

江戸幕府の衰えと三大改革

こんにちは 今日はくもり 風はなし。暖かい春のような日。というか、春なのだ。

 いやはや、ついにやってのけました。

 とうとう昨日、江戸幕府の衰えと三大改革をまとめ終わり、日本史の背骨にアップ出来ました。

 江戸時代の三大改革とは、ご存知の通り(忘れたお方もいっらやるとは思いますが)、徳川吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革であります。

 あくまでも、高校入試、中学入試を目指すためのものですから、この3つを覚えておけば良い、と思っていて、まとめるのは簡単なこと、と思い、とりかかりましたが、これが意外と難しい。というか、意外と重たい。手間がかかる。

 まあ、この3つを覚えれば良いのですから、試験のためには強制暗記でなんとかなる。ただ、これは『日本史の背骨』である。
 歴史の流れを、スッと語ることが出来なければならない。それでないと、卑しくもこの「日本史の背骨」を使って講談する我々も面白く無いし、聞いている子供らも面白く無いだろう。それじゃあ、塾といっしょだ。いや、塾だってもっと面白く出来なければ、生徒をがっかりさせる。子供らをがっかりさせる。

 いや、それよりも、その改革の間に、田沼時代と大御所時代というのがある。これも教科書には書いてある。
 田沼時代は賄賂漬けでぼろぼろの時代。田沼意次はとんでもない奴、というのが私の何となくの感覚だ。
 大御所時代(徳川家斉のころ)であるが、この家斎(いえなり)と言う人も、何やらぱっとした人ではない印象。子供は50人くらいいるという、ちょっとふやけた人、という印象。

 だけど、あらためて調べてみると、この間の時代が分からないと、3大改革の流れも見えてこない。

 ちなみに基本的なことであるが、それぞれの改革、それぞれの時代が何年続いたのか調べてみた。

 享保の改革(吉宗) 30年
 田沼時代 20年
 寛政の改革(松平定信)6年
 大御所時代(徳川家斉)50年
 天保の改革(水野忠邦)2年

 であった。

 三大改革を行なった人は能力はすごいある人だと思うが、上手くいったのは、吉宗の享保の改革 位ではないのか。
 あとは、ただ「倹約」を叫ぶだけで、「倹約」を重視するあまり、いろいろな決まりや規制を設けて、人々を縛り付けようとした。それで怨嗟を買って、すぐ老中の定信も、水野も解任されている。

 田沼時代は賄賂ばかりのひどい時代と聞いているが、20年も続いた。「倹約」ではなく、このころ台頭目覚ましい、商工業者を重視した政策。なかなか斬新であったろう。

 大御所時代。家斎は、何もしない無能な人、という印象だ。教科書の記述も確かにそうだ。しかし、それでなんで50年も続いたのか。特に大弾圧をやったような気配もない。それどころか、この50年で、化政文化の花が開いた時代だ。ある意味、江戸時代でもっとも華やかな時代である。

 次の水野忠邦の天保の改革。けっこうキツかった。株仲間を廃止したり、江戸の寄席を200箇所以上あったものを15箇所にしたり。江戸に出て来ていた百姓を人返しの法で、村に強制的に返したり・・・村で食えないから、江戸に来ているのに、返されても何だって言うんだ、というぼやきが聞こえてきそうだ。
 これは2年で終わっている。

 つまりだ。江戸幕府が改革をしなければならなかった理由は財政難であるが、財政難に陥った理由がある。これが分からずに、いくら改革をやってもダメだった、ということか。かえって何もしない人の方が支持された、というわけではないか。

 江戸幕府は、年貢を米で農民から集めていましたから、米に関しては日本の経済の中心であったが、江戸も中期以降は、商品作物が多数出て来て、問屋制手工業の発達。また、それに伴い、商業が驚くべき発達を見せた。米相場のような、今で言う、先物取り引き、のようなものも行なわれていた。これは世界一早かった。
 米に関して言えば、すでに江戸のころには、重要な物品であるが、あくまでも商品のひとつ、となっていた。

 そのような複雑な世界を幕府の人間が理解出来る分けなかった。その人間が改革、倹約、と唱えても、何もならなかった、と言う訳か。

 何か、現代でも参考になる所があるようにも思えるし、本当に難しいテーマであろう。重たかった。2週間くらいかかった。
[PR]
by history-japan | 2011-04-27 15:12 | 執筆雑感